第八話 シンクロニシティと超能力

 

シンクロ二シティの中には、日常のふとした偶然から奇跡的なものまで、 また、“嫌な予感がする”などの「胸騒ぎ」から「未来の予知」まで、 様々なレベルで、様々な現象が存在しています。 「未来の予知」などは、かなり高度で、超能力的なものとも言えるでしょう。  「胸騒ぎ」から「未来の予知」へ、そしてさらに高度なシンクロニシティが 起こるようになったら、それはこの先どうなっていくのでしょうか? 「シンクロニシティの秘密」最終回は、超能力とシンクロニシティの関係、 そして、その先の可能性について考えてみたいと思います。

私たち人間をはじめ、ほかの生き物たちや、植物、そして物質にいたるまで、 すべてのものは、意識の底の底で繋がっていて、 お互いに影響を与えあい、関連して動いています。 そのために、一見、何の関係もないようなものが一致する、 「意味のある偶然の一致」シンクロニシティが起こるのです。 シンクロニシティは誰の身にも起きますが、 「意識の底の見えない繋がり」に気付いている人ほど、頻繁に起き、 そして、密接に繋がるほど、自分でも意識して、 「繋がり」を使うことが出来るようになるようです。 仏教では、修行を通して、身に付いてくるという能力を 「六神通」と呼んでいます。 仏教で言う「超能力」とは、どんなものか見てみましょう。 1、神足通 「化身」と呼ばれる自分の分身(意識)を、意のままに操り、 遠隔地で自由に行動させられる。 2、天耳通 遠くの音や会話を間近で聞くことができ、この世以外の生命体とも 会話をすることが出来る。 3、他心通 他の人の心を認識し、理解する能力。 また、相手の心を視覚的に見ることが出来るようにもなる。 4、宿命通 自分や他人の、何十、何百万という前世を知ることが出来る。 5、死生智 自分の業(宿命)の過去と未来を知る力。 また、生きながらにして色々な世界につながる力。 6、漏尽通 世界の様々な現象をありのままに見つめる力。 他人の煩悩の状態を見る力。 これらの超能力は、まったく信じられない途方もない話のように思えますが、 世の中に実際に起きている、シンクロニシティの不思議な現象の 秘密をたどっていくと、あり得ないとは言えません。 また、これらの事が「必ずある」という証拠もありません。 ですから、可能性を探求する、というつもりで考えていきたいと思います。  シンクロニシティの例で、 「隣りにいた人と同じ事を考えて、同時に同じ言葉を発してしまった。」 このような偶然は時々あるものです。 けれど、このような意思疎通がもっと明確に出来るようになったら、 それはテレパシーとなり、人を理解する力、人の心を知る力となるのでは ないでしょうか? また、「欲しがっていたものを、偶然手に入れる」場合など、 心と物質が繋がる現象からは、信じられないような可能性が出てきます。 心が物質に影響を与える能力。 それが進歩すれば、念動力や、壁抜け現象(硬貨がガラスを通り抜けるなど) さらに、物質化現象の可能性も考えられます。 

一つ、興味深い話があります。 1894年、アメリカの様々な分野の専門家達で構成された極東調査団が、 インドでヒマラヤの聖者たちと出合った時の出来事です。 ・・・偽書という噂もありますが、参考の為に・・。 (B・T・スポールディング著「ヒマラヤ聖者の生活探求」霞ヶ関書房) 「さて、此処に、皆さんの中の誰かが今しがた、泉から汲んできたばかりの 水が一杯あります。 見てごらんなさい。水の丁度まん中に、氷の一片が出来かけてきたでしょう。 一片々々、だんだん固まってきた氷の部分が増え、とうとうコップ一杯 凍ってしまいましたね。 一体どうしたのでしょうか。 わたしは水のまん中の分子をわたしの想念の力によって「普遍なるもの」の 中に置き、それが形をとるようにしたのです。 言いかえれば、そのヴァイブレーション(波動)を下げていって、 遂にそれが氷となり、その外の分子郡もその周囲に集まって形をとり、  遂に全部が氷に化してしまうというわけです。 この真理を、皆さんは小さいコップだけではなく、桶や池、湖や海、 はては地球上の水全体にまで適応できるのです。 そうすると一体どうなるでしょうか。 皆凍ることになりはしないでしょうか一体何の為に? 目的なんてないのです。 それは一体如何なる権威によってそうするのか、と皆さんはお尋ねになる でしょう。 『完全なる法則の使用によって』とわたしはお答えしましょう。 ではこの場合一体何の為か? 何の為でもありません。 それは、別の何かの為になることもなかったし、また為になるようにも できません。 もしわたしが、この実験を徹底的にやりつづけて行くとすれば、 結局どうなるでしょうか。 それは反動がきます。 誰に来るか?わたしにです。 わたしは法則を知っている、だからわたしの表現するものは忠実に わたしに返ってくるのです。・・・(中略)・・・ ・・・もしわたしがどんどん凍らせつづけていたら、 最後の目的を遂げるずっと前に、冷凍がわたしにはね返ってきて、 わたしまで凍ってしまい、わたし自身の冷凍という形で わたしは自分の収穫物を刈り入れることになるでしょう。」   ここまで不思議な話だと、現実として受け入れ難く感じるかもしれません。 けれど、人間、行くところまで行くと、こんな感じになるのでは? という例として載せてみました。 

これよりも、もっと、現実に近い話で、心が物質に影響を与える例には 「気功」があります。 気功は、物質ではなく、エネルギーを意識の力によって操るものです。 気功には、武術気功、医療気功と違いはありますが、どちらも 気功師は、自分のまわりのエネルギー「気」を、集めたり、散らしたり、 入れたり、出したりと自在に操る事ができます。 そしてエネルギーである「気」は、人間の身体や、物質に影響を与えるのです。 気功の世界では「意識(こころ)」も「エネルギー(気)」も「物質(体)」も 互いに影響を与えあう、繋がったものだと、実感できます。 

☆シンクロニシティは、ごく身近なところにも「小さな偶然」として  現れる現象ですが、  そこには、世界の秘密や、人間の可能性まで、実に深遠な真理を  内包しているのです。  生活の中で「シンクロニシティ」に出合った時、  そんな神秘を思い起こして頂けましたら幸いです。  シンクロニシティの秘密を心に留めておくと、貴方の周りにも、  貴方の中にも、素晴らしい奇跡が起こるかもしれません・・・。  

☆最後に、ちょっと長いのですが、とても面白い“超能力”に関する話が  ありましたので、引用させて頂こうと思います。  合気道の第一人者、塩田剛三氏の師匠、植芝盛平氏の超人的な能力に  ついての話です。 (塩田剛三著「合気道 修行」竹内書店新社) 「不思議といえば、極めつきの出来事をお話しましょう。 これも私が実際にこの目で見たことです。 あるとき、陸軍の砲兵官の方が、軍の関係者を九人ばかり連れて 植芝道場にやって来ました。 合気道という素晴らしい武道があるから見学しろ、というわけです。 そのときいっしょに来た人たちというのは鉄砲の検査官でした。 検査官というのは、作ったばかりの鉄砲を実際に撃ってみて、 銃身が右に曲がってるとか左に曲がってるとかを判断する人たちなのです。 射撃の腕前はオリンピック級で、私が見せてもらったときも 本当に百発百中なのでビックリしました。 そういう人たちを前にして演武を行った植芝先生が、そのとき 「ワシには鉄砲は当たらんのや」と言ってしまったのです。 確かに植芝先生は、蒙古で馬賊と闘ったときに鉄砲の弾をよけたと 聞いていましたが、しかしこのときは相手がいけません。 検査官の人たちはプライドを傷つけられて、すっかり怒ってしまいました。 「本当にあたりませんか」彼等が先生に詰め寄ります。 「ああ、当たらん」 「じゃあ、試していいですか」 「けっこうや」 売り言葉に買い言葉です。 その場で何月何日に大久保の射撃場で鉄砲の的になる、という誓約書を 書かされ、拇印まで押すはめになってしまいました。 しかもその写しを軍の裁判所のようなところへ持っていって、 確認までしてもらうという念の入れようです。 これで植芝先生は撃たれて死んでも、文句が言えないように なってしまいました。 さてその当日、先方から迎えが来て、大久保の射撃場へと植芝先生を 連れていきました。 お供は私と湯川さんの二人です。 奥さんが大変心配されて、やめるように懇願したのですが、 先生は「いや、大丈夫。あんなもん当たらんよ」とのんきなものです。 私と湯川さんも顔を寄せ合って、「こりゃ葬式を用意しといたほうが いいんじゃないか」などと相談していたくらいです。 射撃場に着くと、もっと大変なことが私たちを待っていました。 私はてっきり、一人の人が先生を撃つのかと思っていたら、 なんと六人がかりだというのです。 用いた銃はピストルでした。 ピストルの有効射程距離が二十五メートルだそうです。 射撃場ではその距離に人間の形をした的が置かれています。 しかし、そのときは人形の代わりに、植芝先生が的の位置に 立つことになりました。 そして、こちらのほうで、六人の検査官がピストルを構えました。 二十五メートルというと相当の距離です。 あんなところから先生はいったいどうするというのだろう、と 私は息を呑んで見守っていました。 「一、二、三」で六つの銃口が一斉に火を吹きました。 砂ぼこりがもうもうと舞い上がったかと思うと、次の瞬間、 六人のうちの一人が宙を舞ったのです。 なんということでしょう。 先生がいつの間にか六人の後ろに立って、ニコニコ笑っているでは ありませんか。 狐につままれたような気分とはこのことです。 いったい何が起こったのか、私にはまったく理解できませんでした。 私ばかりではありません。 その場にいただれもが、ただ驚くばかりで言葉を失っています。 納得のできない様子の六人の検査官が、もう一度やらせてくれと申し出ました。 先生は「かまわんよ」と、いたって涼しい顔です。 もう一度、六つの銃口が先生に向かって火を吹きました。 と、今度は端っこの人が投げられて宙に舞ったのです。 先生はまたもや、いつの間にか後ろに立っていました。 私は茫然となってしまいました。 今度こそ何が起こるか見極めてやろうと目をこらしていたのですが、 結局、先生の動きがなにひとつ見えなかったからです。 立っている先生に向かって六つのピストルの引き金が引かれた。 そこまではわかっています。 ところが、次の瞬間にはもう、先生は二十五メートルの距離を移動して、 人一人を投げ飛ばしているのです。 これはもう、まぎれもなく神技としか思えません。 首を傾げるだけの軍の関係者をあとにして、先生は意気揚揚と 引き上げたのでした。  帰りしな、私は先生に「いったいどうやったんですか」と尋ねました。 それに対する先生の答えは、次のようなものでした。 彼らがピストルの引き金を引こうとすると、黄金の玉のような光が飛んで来る。 弾はそのあとから来るから、よけるのはなんでもない。 それに、六人同時に撃ってるつもりでも、一度には出て来ない。 必ずバラバラだから、いちばん先に来るやつのところに行けばいいのだ、と。 「金の光は、ビューんとすごい音がするんだよ」と先生はおっしゃってました。 音がしたときに走り出すんだそうです。そのときはまるで忍者のような、 腰をかがめて小走りにはしるような格好になるそうです。 それで飛びこんでいって、あとから弾が来たときにはもう半分くらい 中に入っているのです。 先生は、金の光が来てから弾が届くまですごい時間があるというんですが、 見ている方にとっては、まさに一瞬にしかすぎません。 先生が間合いをつめるのは、まったく見えないわけです。  ・・・(中略)・・・ この話には後日談があります。 私の知り合いで、山梨に佐藤貞次郎という猟師がいました。 この人が鉄砲撃ちの名人なのです。 たとえば、山鳥を撃つ場合、猟師が山鳥が沢から降りてくるのを 狙い撃ちします。 このときの山鳥のスピードは時速二百キロくらいになるんだそうです。 山鳥というのは、頭を撃たれると、そのままストンと落ちるのですが、 腹を撃たれると、滑空していって遠くに落ちてしまう。 だから、猟師は皆、頭を狙ってその場に落としたいのですが、 なかなかうまくいかない。 ところが、この佐藤さんは百発百中で頭を射抜くのです。 まさに鉄砲撃ちの名人中の名人です。 あるとき、私はこの佐藤さんに、植芝先生が鉄砲をよけた話をしました。 「それでもワシの鉄砲はよけられん」と、佐藤さんは自信満々です。  「人間の頭なんてこんなにデカい。ワシは山鳥の頭を撃つんじゃ。 人間に当たらないわけがない」 そう言って、佐藤さんは先生と勝負するために山から下りてきました。 私は佐藤さんを植芝道場に連れていって、勝負をしたい由を 先生に伝えました。この挑戦を先生は受けたのです。 道場の奥に先生が正座して座り、離れたところから佐藤さんが 猟銃を構えました。私は固唾を飲んで見守っていました。 佐藤さんの指が今まさに引き金を引こうとしたときです。 「まて、あんたの鉄砲は当たる」と、先生が制しました。  「あんたはワシを撃ってやろうなどという気持ちがこれっぽっちもない。 最初から当たるつもりで撃とうとしている。 そんな人の鉄砲はよけられない。たいしたものだ」 先生はそう言って、佐藤さんに頭を下げました。 佐藤さんはほんとに喜んで、また山に戻っていきました。 私はすっかり感心してしまいました。  佐藤さんの鉄砲も名人なら、それを察知して勝負を退いた植芝先生も名人です。  まさに、名人は名人を知るというところでしょうか。  大変に貴重な名人同士の勝負を見ることができた私は幸運でした。」